「絶っっ対、だめだからね」
 強い口調で言う春日に、笙は思わず口を噤む。
「売ってるお菓子ならまだしも、私が作ったものなんて普通の材料しか入ってないんだから、絶対だめ」
 でも生鮮食品というわけでもないから、別に大丈夫ではないだろうか、と思ったものの、それは顔に出ていたらしい。
「生物じゃないから大丈夫だろうって思ったでしょ、今」
 じとっとした目を向けられる。
「だめかな?」
「絶対だめ! お腹壊したりしたらどうするの」
 それでもやっぱり、だめかなぁなどと思ってしまう。だがきっとこれも顔に出てしまっているんだろうな、と、視線を逸らさない春日の表情を見て笙は思った。

   * *

 事の発端は、いつものベンチでの会話だった。今までと同じように、だが、今までとは少し違う距離感で話していた時、ふいに春日が言った。
「そういえば、あの時渡したチョコって、どうしたのかなって思って。さすがに捨てたかなと思ったんだけど……」
 それに対して素直に答えたのが、今思えばまずかった。
「捨ててないよ?」
 春日が驚いて顔を上げる。
「えっ? 食べてたの?」
 その返しに、ようやく自分が間違いを犯したことに気づいたものの、既に遅かった。ごまかすという手段もとっさに浮かばず、笙は素直に答える。
 もらった当初は返すか返さないかを迷っていた為に食べられなかったこと、その後もひとまずは受け取る形を取ったものの、自分なんかが食べていいかまた迷ってしまったこと、そして最終的に、もったいなくて食べられなくなってしまったこと。それらを伝えると、春日は、どこか呆れたような、複雑な表情を浮かべた。
「それで、ずっと開けずに持ってたってこと?」
「うん。ごめんな、せっかく作ってくれたのに……」
「ううん、それは気にしないで。私も、あんな渡し方しちゃってたんだし……」
 お互いに俯き、少し、気まずいような雰囲気が流れる。すると春日が、恐る恐るのように言った。
「でもさすがに、もう捨てていいからね。随分経っちゃってるし……」
「えっ、捨てるのか?」
「捨てないの?」
 思わず振り返った視線が真っ向からぶつかる。
「だって、せっかくくれたのに……」
「いや、あの、気にしなくていいから。もう、捨てていいからね?」
「じゃあ今日帰ったら食べる」
「待って長谷部、だめだって。あげてからどれだけ経ってると思ってるの」
「でも……」
「お願いだから、捨てて。お腹壊したりしたら大変でしょ?」
 それでもなお頷けない笙に、春日がさらに言い募ろうとしたところで、予鈴が鳴った。笙が立ち上がると、春日ももどかしげに立った。
「じゃあ、また明日」
 そう言うと、春日は疑わしげな視線を向けながら言った。
「絶対、だめだからね?」

   * * 

 言わずに食べてしまえばよかった。あとになって思う。もらってすぐには食べなかったけど、そのあとちゃんと食べたと。せめてそういうことにすればよかった。自分の臆病な性格が、こんな形で足を引っ張るとは。
 ――だって、仕方ないじゃないか。
 気になってる女の子からバレンタインに本命かもしれないチョコをもらって、嬉しくないわけがない。でも自分の出自のことを思うと受け取ったらいけないような気がして、でも結局は受け取ってしまって。それでもやっぱり、だめだって思ったのに――。
 全部が初めてだった。どうしたらいいかわからず迷っているうちに、時間が経ってしまっていた。もっと早く素直になればよかったのだろうかと思うが、結果がこうなったからよかったものの、その時の自分に素直になれなんて、とても言えない。
 ため息は飲み込む。取り繕うのには慣れていた。だがそんな風に逃げてばかりいたせいで、こんな事態になっている。なっている、のだが。
 ――食べちゃ、だめかなぁ。
 笙はまだ、諦めてはいなかった。


 翌日の昼休みのことだった。いつものベンチに行くと、春日が小さなラッピング袋を渡してきた。
「クッキー、焼いたの」
 唐突なことに驚いていると、春日は続けた。
「ほんとはチョコにしようかなって思ったんだけど、教室って暖房ついてて結構あったかいし、もしかしたら溶けちゃうかなって思って」
「あ、ありがとう」
 状況が読めないままにお礼を言うと、春日が、だから、と続けた。
「あの時あげたチョコ、ちゃんと捨ててね」
「えっ」
「どうせまだ捨ててないんでしょ」
 捨てていなかった。こっそり食べるつもりですらいた。だから笙は無言のままでいたのだが、春日は、やっぱり、と小さくため息をついた。
「私のことなら気にしなくていいから。代わりにそれ食べて、あの時のチョコは捨てて」
「えっ、もったいない……」
「――もったいなくないから! あのね長谷部、お店で売ってるお菓子みたいに保存料が入ってたりするわけじゃないんだから、ああいうのってよくて三日ぐらいなの。食べちゃだめ」
「でも……」
 それでも食い下がろうとする笙に、春日は少しなにかを考えるようにしたあと、片手を差し出し、強めの口調で言った。
「じゃあそれ返して」
「え?」
「あの時のチョコの代わりにあげようと思ってたものだから、捨てないならそれ返して」
「――やだ」
 思わず袋を両手で抱え込む。子どもじみた仕草だと、一拍遅れて気づいた。だが口は勝手に動く。
「せっかく春日がくれたものなのに」
 するとこちらを見つめる春日の顔が僅かに赤くなり、困惑したように逸らされる。
「そういう反応、しないで」
「ご、ごめん」
「あ、謝らなくていいから」
 いつもやってしまったあとに気づくのだが、あの日以来、春日に対しては、考えるより先に体が動いてしまうことが多くなった。そのたびに春日を困惑させてしまうようなので、やめたいと思っているのだが、やはり体は勝手に動く。
 傍にいてもいいと、言われたからだろうか。抑えていた自分が、出てしまっているのだろうか。だがそうだとしても、ちゃんと距離感は保たなければと思う。思うのに、できない。
 お互い黙り込んでいると、やがて予鈴が鳴った。今日もどうにか乗り切った。そう思い、笙は逃げるように立ち上がった。だが続いて立った春日に、すぐに手首を掴まれる。
 いくらか落ち着きを取り戻したらしい春日は、だが顔は僅かに赤らんだまま、緊張した面持ちで言った。
「今週の日曜、空いてる?」
「え? うん」
 素直に答えると、春日は笙を見上げながら言った。
「じゃあ、その日長谷部の家に行く。私がチョコを捨てる」
「えっ」
「時間とかは明日決めるから。絶対ここに来てね。じゃあ、また明日」
 そのまま背を向けて歩き始めた春日は、だが少し行ったところで、未だに立ち止まったままだった笙を振り返った。目が合う。
「本鈴、鳴るよ」
 頬を染めたままそう言った春日は、再び校舎へと向かう。笙もハッとして踵を返した。
 そのまま校舎へ入り、だが教室に向かって足を動かしながらも、まだ事態に脳が追いついていなかった。
 春日が家に来る。少し前にもあったことだが、今は状況が違った。前回は、まだ距離を置かなければという気持ちがあった。でも今回はそうではないのだ。
 春日は、普段の言動は控えめだが、突然大胆な行動に出ることがある。そういうところも、正直嫌いではない。むしろ、そうしてくれたからこそ今の関係があるとも言える。だが今のこの状況で家に来るとは、大胆が過ぎるというか。いやそれより、チョコを捨てると言っていた。となれば食べるなら次の土曜まで。でも万が一、本当に体調を崩したりしたら、不要な責めを負わせることになる。それは避けたい。かといって、好きな女の子からもらった本命チョコを捨てるだなんて――したくない!
 チャイムが鳴った。本鈴だった。教室はまだ見えなかった。
「うわっ!」
 笙は声を上げると、入学以来初めて廊下を走った。


  End


 本編トップヘ

 小説置き場へ